" />
« お!? | メイン | ひさびさな星空ですな » まぁ、なんつーかあれだ - 2006年11月19日人はなんで生きてんのかなぁ~とか人はなんで死んじゃうのかなぁ~とか、そんな根源的な自問自答をさせられることが多い昨今なのである…。 船がアナタで、岸壁が現世だとしよう。 んでもって、仏教的には、このシガラミみたいなもんを業(カルマ)という。厳密にはちょっと違うが大体そんな感じ。 一般的には、人生の舫は本人の意思及ばざるところで解かれることが多い。それは、病気であったり事故であったりはたまた他者の手にかかったりと、色々様々バリエーションが考えられるがすべてにおいて共通なのは、この場合、一度ほどかれた舫は二度とは結べず、解かれた以上は、死出の船旅に出て二度とは接岸できないということである。 だが時に、ことさら人間という生物においては、往々にしてこの舫を自らの最終決断で解いてしまう場合がある。そこに至るプロセスもまた色々様々なのであろうが、いかんせん、解かれた以上は二度と接岸できないルールにのっとって、その経緯の真相が明らかにされる機会また、永遠に失われることになる。あとは推論と憶測のみが積み上げられてやがて風化していくということになろうか。 「死んでしまえば、あとなにもない」という文句で、鰺ヶ沢くどき・鈴木主水バージョンは、エンディングを迎える。鰺ヶ沢に伝わる口説き歌である「鰺ヶ沢くどき」には「きつねの口説き」と「鈴木主水節」の二つがあって、これが往々にしてごっちゃごちゃになって紹介されたりするのだけど、そのへんはまた機会があったら触れることに。とりあえず、この結びの台詞は、まさにそのとおりでそれ以上でも以下でもない。特に自ら命を絶つという人生のエンディングの場合、どうしてもそれが本当にエンディングでよかったのか、という疑問がつきまとってしまうわけだが、当事者的にはもうなにもないわけで、あとは残された側の問題である。問題に過ぎない、という言い方もできるかもしれない。 あるいは、亡くなった人のことを考える事は生きている人の特権ということになるのだろうか。 とか、この日の鰺ヶ沢港はそんなことを考えさせる風景なのでした。 まあ、個人的立場としては「死なない限りは生きている派」なんだけど、なんだかそういうこと考えさせられる事柄が多すぎるわけだよこの世の中は…特に特定のなんかの件に関して言及しているとかそーゆー訳ではないけれども。 投稿者 吟 : 2006年11月19日 00:48 トラックバックこのエントリーのトラックバックURL: コメントこういう微妙なもんには理論や基準がつけがたいために、なかなか思考もまとまらず、いちばん食いつきそうなオレでさえ、とりあえず何も言わないでおこうと思い敬遠しがちなのだが、 この人間社会は、種を残すとか何の為に生きる、といったような生きるものとしての根本的な部分が時間とともに薄れてるんじゃないかとも思う。 野望を持て・・・信長よりも気高く。
投稿者 moral : 2006年11月20日 13:29 ウ~ム、お二人の言葉、それぞれに考えさせられました。 「一触即発。 ・・・と、かつて言った人がいましたが(←俺)、 テーマが重くて、普段だったら(写真だけ楽しんで)読み飛ばしがちな長文でしたが、こういう(長くて重い文章)のも、たまにはいいですね。 ひさしぶりに書き込みにきて、こんな内容ですみませんが・・・。 投稿者 オカ漁 : 2006年11月20日 22:44 普段だとこういうことは書かないんすけどね…。 まあ、でも、たまには考えないといけないテーマではありますわな、というシーズン(?)なのかもです。 自ら命を絶つ件に関しては、人間という生物が「脳化」しすぎているのではないかという意見を見たことがあります。種としての本能より、人間社会の価値観というか理性・理念みたいなものが先行しすぎているのかもしれません。人間社会を形成する理屈とか理論、都市文明とかはいわば、人間の脳の産物なわけで、ある種、脳が肉体を殺しているかのような印象を持ちます。我々は脳を重要視するあまり、肉体の鍛錬をおざなりにしているのかもしれません。(ぢっと、己が腹のあたりを見る。) 投稿者 吟 : 2006年11月21日 21:04 数週間ぶりに見に来ました。なんとなくですが。 「年上の人たちの世界=社会」だったのが、ふと気づくと「自分の意識=社会」になってきてて、戸惑ったりするときがあります。自分の生い立ちを振り返ったり... 時節柄、みなさま心身共にご自愛シーズンかな、と。岩木川の風も時折違う方向から吹き始め、いよいよ冬到来のようですね。 投稿者 poti : 2006年11月22日 23:34 コメントしてください検索 |
||