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わが町遺産【第1回】~赤石の追分碑~ - 2009年07月05日

 ども。
 突然ですが、鰺ヶ沢町教育委員会が発行している広報紙に “あじ”ある情報 ってのがあります。鰺ヶ沢ご町内在住でしたら、月イチで毎戸配布される、アレです。
 その中にこの春から、「わが町遺産」シリーズという新連載が始りました。あまりにオレ好みなツボにはまった企画なので、筆者の方に許可をいただき、blog版企画をコラボることにした次第です。

 しかしながらただの転載だとオレが楽しすぎな気がしなくもなくもなくもない(どっちだ?)ので、blog版では、写真を新規撮影した上で、再構成してお届けします。



わが町遺産【第1回】~赤石の追分碑~

 江戸時代、弘前から秋田へ向う主要道路だった「西浜街道」は、鰺ヶ沢を出て大和田の砂山を歩き、赤石町の街中へと入るルートを通っていました。

 途中、道は現在の対馬分店の前で二手に分かれ、一方はそのまま赤石方面(秋田・大間越)へ、もう一方は赤石沢目(日照田・種里方面)へと向かいます。 この分岐点のところに、江戸時代に建てられた「追分碑」があるのをご存知でしょうか? 追分碑と言うのは、道の左右を示す石碑のことで、今でいう道路標識のことです。 昔からずっと、この場所に建っていました。

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 赤石の追分碑は高さ175cm、安政2年(1855)に建立たれたもので、「追分」「左赤石沢目通」「右大間越通」と表面に刻まれています。 ここで注目したいのは、「左」と「右」の表記です。 実はこの左と右は、弘前側から歩いてきた人のためを考えて、左が赤石沢目、右が大間越であることを示しています。 ところが逆に、秋田側から歩いて来た人にとっては、左右の向きが違います。つまりこの道路標識(追分碑)は、殿様のいる弘前から来る人のことは考えていますが、他国から入ってくる旅人のことは、あまり意識していないのです。 何だか、当時の人々の方向感覚がわかるようで、ちょっと面白い石碑だとは思いませんか。

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〈「わが町遺産」について〉
 史跡や文化財というと、どうしても、国や県で指定を受けた貴重品ばかりが思いうかびます。最近だと、なんと世界遺産まで目指すものもあるようです。果たして、文化財の価値は、国や世界で認めてもらうことでしか見つけ出せないのでしょうか? そんなことはありません。もっと身近な立場から、身近な文化財の価値を見つけ出していきたい。 そんな思いから、皆さんのご近所に残っている何げない文化財を、「わが町遺産」として少しずつ紹介していきたいと思います。(文:町学芸員 中田)


 写真には「大正四年七月」「能代道通」という文字も写ってますが、他の文字とはタッチ(?)が違いますね。後年追加して彫られたものなんでしょうかね? 後日、謎が解けたら追加報告ということで…(^^;)


今回紹介した「わが町遺産」の場所:

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投稿者 吟 : 2009年07月05日 23:50


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