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光信の墓 - 2008年08月04日

大浦光信は、1460年~1526年というから、今からおよそ500年前に鰺ヶ沢に住んでいた人物である。
応仁の乱の起こる6年前に生まれて、種子島に鉄砲が伝来する17年も前に没しているというから、戦国時代前半の人である。おおよそ、この人のあたりから、一族が津軽地方の平定を始めて、四代後の為信が初代藩主として津軽姓を名乗ることになる。故に光信を津軽藩祖と呼ぶ。というか鰺ヶ沢的には、是非そう呼びたいところ!

ま、そんでもって、その光信の埋葬地も当地に残っているが、塚と、当時植えられた杉や松があるばかりで、墓標らしきものは、ない。

080804-1.jpg

↑御霊所内を斜め後方から臨んで見た。



ま、その…ある意味、人のお墓を撮ってることになるわけですが…。

初めてここに来たのは、小学校5~6年生の頃。当時なぜか、オレらの世代にだけ存在した「郷土部」という部があって、その一環でやってきた記憶がある。そっから数えて3~4回目あたりでようやく雰囲気に慣れてきて、やっとこさ去年、初めてシャッター切る気になれたw;
周囲の雰囲気はいろいろ変わったけど、ここの空気は、ビシッと昔のまんまなんだぁねぇ、きっと500年前から、こういう空気にちがいない。

と、いうのも…。

伝承によると、大浦光信は、鎧兜を身に着けて、帯刀、ほら貝装備の戦装束を施されて、立ったままの姿勢でこの地に眠っている。自身の遺言でそうなっているというのであるから、「この地に眠っている」って言っていいのか?ってくらいの気迫と言えよう。
その気迫のせいかどうか、この敷地内には、なぜか雑草が生い茂らない。そういうビシッとした不可思議な空気があるのでございます。

でもって、去年着たとき(ようやく?)気づいたのが、一本の異様な姿の杉の木。上の写真の中央あたりに写っているけど、所々、おどろおどろしい瘤とかがある。そんな感じで見渡せば、ねじれて曲がった杉もあれば、とてつもなくすっくとまっすぐな杉もあり、細いのやら太いのやら、いろいろバリエーションがあるのに気づく。

なにやら、妙にそれぞれが、どろどろとした人間の情念の発露のように思えてこなくもない。
墓標らしい墓標がなにもない光信だが、じつはこれらの杉たちこそが、彼の墓標にほかならんのではないのかと、そんな気持ちになるのである。

とか、なんかそんな感じ。

近くには、光信(病死)に殉死(割腹)した家臣の墓とかもある。
光信、死の間際に彼のものに「冥土の案内をいたせ」と命じたとかで。

ちょっと、そりゃ~いくらなんでも…って思うのは現代感覚なだけなんだろーか、ねえ。

場所はこのへん

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投稿者 吟 : 2008年08月04日 23:09


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コメント

 初のコメント・・・。やっぱ、津軽藩祖は、光信公じゃなくて為信公でしょう。気持ちはよくわかるけど。
 鰺ヶ沢町では、光信公のことは始祖と呼んでいるはず。

投稿者 M : 2008年08月07日 18:23

Mさん、どうも。
なるほど、確かに津軽「藩」だと初代は為信ですもんね。
納得。

投稿者 吟 : 2008年08月07日 21:15

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