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大祭に関するエトセトラ - 2009年09月03日

先月末、といってもそれは今週頭のこと。
西海小学校で、白八幡宮大祭を振り返ると銘打って、祭りのことを話したり、各町内のチャンチャレンコや夜神楽の競演をしたりって~催しがあってですな。

その絡みでいろいろ仕入れていたネタをメモ的にここに残そうかと。

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まずは、シラハチマンなのかシロハチマンなのか、から…。



白八幡宮大祭の読みはシロハチマングウタイサイなのかシラハチマングウタイサイなのか。
ご町内各町民の意見は大体半々であったのだが…。

○どちらでもよい。シラと読もうがシロと読もうが、それが白八幡宮を指しているのであれば(八)
○シラ説を押す。神社の系譜的に(冨)

神輿について
そもそも神輿が二つあるというのが珍しい。かつて弘前で行われていた大祭(鰺ヶ沢の大祭と対をなすもの)では、神輿はひとつであった。(津軽藩の行列図などから)

このふたつには、白八幡宮の主神が載っているとのこと。

前方の神輿

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○かつて田中町・水屋に存在し、後に白八幡宮に遷座した白鳥大明神。担ぎ手は田中町の者(より正式には田中町の漁師?)。神輿の名称は鳳凰輦(ほうおうれん)または略して鳳輦(ほうれん)という。神輿上部の飾りは伝説の生物、鳳凰である。(八)


後方の神輿

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○もともとの白八幡宮の主祭神。担ぎ手は漁師町の者(より正式には漁師町の漁師?)。神輿の名称は葱華輦(そうかれん)。神輿上部の飾りは、ネギの花(葱坊主)である。ネギの花は咲いても落ちないので縁起が良いとされる故。(八)

○田中町と漁師町の者が担ぐのは、かつてその町内が行列運行の終端だったためである。終端の町内の者は、そこまで来てくれるのであるから、と担ぎ手をかってでたとのことである。現在の行列の終端は大和田-舞戸まで伸びたが、そのしきたりが継承されている。(八)

行列について

大祭は正式には神幸祭(しんこうさい)と云う。神幸祭の中において、出発時の式を発興式(はつよしき)または発興祭(はつよさい)、到着時の式を還幸祭(かんこうさい)と云う。(八)

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↑発興式。さらにこの前夜、神様が神輿に遷る儀式が密かに行われている。

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↑還幸祭。社のまわりを三周する。

神輿行列は渡御(とぎょ)と云い、船による渡御を海上渡御(かいじょうとぎょ)という。
渡御の運行開始方面は、前回とは逆パターンで行われる。(今回初日は大和田方面だったので、次回初日は舞戸方面からはじまる)

渡御は町内全ての神社前を通過するが、塩竈神社の仮殿、願行寺と水屋ではかならず立ち停まる。

○かつての御旅所(神輿が宿泊する場所)は、水屋(田中町)であり、御旅所に神輿(=神)が居る場合、その場所で前夜祭(宵宮)が行われた。当時もう一方の端である淀町でも宵宮を行いたいという申し出があり、豊受美神社を御旅所とするパターンが新たに編成され、以降、公平となるよう交互に運行を行うようになった。しかしながら、その後、豊受美神社が御旅所として使われることがなくなったのだが、今後に運行するという伝統だけが受け継がれて現在に至る(八)

○海上渡御がなぜ行われるようになったかの由来は定かではない。(八)
○時期的には動力船が普及して以降であろう(冨)

○塩竈神社に立ち寄るのは正式参拝である。これは塩竈神社の祭神がかつて白八幡宮に合祀されていたことによる。(八)

○願行寺に立ち寄るのは、先々代の住職が、寺の前で破損した神輿を修理してくれたことに由来し、以降、敬意を表しているためである。(八)

○水屋に立ち寄るのは、かつて水屋に祭られていた白鳥大明神を合祀していることに由来する。(八)

○塩竈神社で奉納されるカシ禰宜について、これを漢字表記で下司禰宜とした明治時代の新聞記事が存在する。(ただし、その漢字表記が何に起因するかは不明である)


山車運行
各町内の山車は、供奉(ぐぶ)として行列に随行しているが、もともとは運行山車ではなく、飾り山であった。明治期の新聞記事には、上町・下町でそれぞれ一台ずつ山車を運行し、それ以外は各町内に飾っていたという記述がある。

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○元来、祭りは神事であり、神輿行列と山車行列が一体となっている大祭は、由緒正しい祭りの形態を現在に伝えている。逆に後方の山車運行が神事を離れ、発展するとネブタやネプタのような祭り形態になる。(書)

○山車には行きと戻りの囃子があり、それぞれチャンチャレンコと夜神楽である。行きか戻りかは、神輿行列の動きを基準とするが、神輿行列がいない場合には山車の動きを基準とする。(冨)

例)淀町方面へ向う漁師町通過時、神輿は新地におり不在であるので、山車を基準に考え囃子は行き(チャンチャレンコ)を奏でる。復路では、神輿が漁師町をはじめて通過するので、これも行きと考えてチャンチャレンコを奏でる。その後、神輿が浜町に入り、山車が釣町を通過する際には、前方に神輿がいないので、山車の往復を考えて戻りとし、夜神楽を奏でる。

※とはいえ、生演奏がすたれ、テープ再生が主体となっている現状では、このような細やかな演奏の仕分けが難しくなっているのも事実でありましょう。

○チャンチャレンコの語源は、その演奏の擬音ではないか。口伝による演奏技術の継承などの結果ではないか。(冨)

○ちなみに弘前にはチャンチャレンコそっくりの演奏が残っており、弘前祇園囃子と呼ばれている。夜神楽もあるぽい。

○鰺ヶ沢の夜神楽は、戦後はじまったものであり、二丁目が始め、それが各町内に広まった。(冨)

○ただし、一丁目だけは夜神楽はおこなっていない。しかしながら、夜神楽の囃子で舞う児雷也はある。

○夜神楽には歌詞があり、その内容は…
 隣のミヨちゃんが、腹病んだ~ えいやっ
 というものである。(冨)

 ※↑メロディを覚えやすくするための当て歌詞?


ン~ほかにもなんかいろいろあったような気がしますが、とりあえず、このへんで…。
あ、なんか (八)とか(冨)とか(書)は情報源を表しますが、分かる人にだけ分かればいいって感じだとおもうので、どれがなにかは明言せず…。

投稿者 吟 : 2009年09月03日 23:19


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コメント

先日はお疲れさまでした~。子ども達以上にワクワクして聞いていました。・・・それもそうと 隣のミヨちゃんが腹病んだとは知らなかったじゃ・・・

投稿者 ごろ : 2009年09月04日 12:30

オレもです。
そして、いまだになにかが怪しいとにらんでますw

投稿者 吟 : 2009年09月04日 23:46

コメントしてください




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