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鰺ヶ沢一万年の旅 - 2007年09月14日

この文様を掘り込んだ人は、今はもういません。

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この文様を掘り込んだ人は、9000年前の鰺ヶ沢に住んでいました。

もちろん、そん時ぁ、鰺ヶ沢なんて地名はまだないと思うのだがw;



と、いうことで、日本海拠点館 1階でやっている考古学出土品の展示に行ってみた。
近年の研究で、鰺ヶ沢に眠る縄文遺跡群は、規模やら古さやら考古学的価値が三内丸山級とかいう話になりつつあるよーなんですよ、知ってましたか? オレはさんじゃらっとは知ってましたが、今日、出土品見てなんかすげー納得した。

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一番手前、無紋土器と呼ばれるもので、炭素14による年代測定では、およそ9700年前のもの。


ほんでもって…

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…これらの、まるで昨日割れたかのような陶器の破片は、西浜街道と呼ばれる鰺ヶ沢と弘前を結ぶ街道の発掘調査で出土したもの。手前三角形の破片には、「味噌 大沢」と見て取れますが、このお店は今も鰺ヶ沢本町にございます。


と、いうことで、一万年前からほぼ現代まで続く出土品が、ここでは見れます。
一万年も人が同じ地域で暮らし続けているという単純な事実がなんか、すげーな…。


あと、あれです。鰺ヶ沢版「もののけ姫」の世界。
鰺ヶ沢町の鳴沢地区には、今でも湯船とか小屋敷という地名があります。湯船っていうと「ふ~っ」っていうバスタブのことかっつーとそうではなくて。加治屋さんで熱い鉄をジュッーって冷やすあれ。小屋敷ってのはちっこい屋敷ではなくもともとは金敷(カナシキ)がコヤシキに転じたもので、鍛冶屋さんがトンテンカンってやるあれ。

ほんでもって、当地に伝わる鬼神太夫という伝説とかと絡めると、昔このへんに異形の民とされた製鉄集団がいたらしきことは容易に想像できてたのだが…。
動かぬ証拠が、ここにあった。てか、動かすのが大変な証拠というべきや?

070914-3.jpg

平安時代の製鉄炉。ここには34基の製鉄炉があって、北日本最大の製鉄コンビナートだったらしいっすよ。北海道ではいまんとこ、そんな遺構は見つかってないのでここが鉄器の供給元だった可能性大なのだそうな。

平安時代といえば、このあたりはまだ津軽蝦夷の時代なので、「もののけ姫」でいうところのアシタカたちが実はタタラ場をやっていたという感じになるw;


ま、そんな感じで、これまで鰺ヶ沢の歴史研究は文献や古文書の解読が中心に進んでいたぽいけど、モノの存在感が示す歴史のリアリティってのも、やっぱ迫力あるやね。今後は情報(文献)と物体(出土品)がリンクする方向で研究が進んでいくようなので、楽しみ楽しみ。


とか、まあ、そんなかんじで、明日15日までしかやってないのだが、是非。

投稿者 吟 : 2007年09月14日 22:55


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コメント

点と点がつながった線が現代に繋がる。
すごいリアリティあるなぁ。

> 「もののけ姫」でいうところのアシタカたちが
> 実はタタラ場をやっていたという感じになるw;

おもしろーい。
歴史の授業もこういう感じでヒトツお願いします。

投稿者 goldy : 2007年09月15日 14:55

土器とかって、ただそれだけ見ててもなんだかよくわからないけど、いろんな話ききながらみると面白いよね。

って思った。

投稿者 吟 : 2007年09月15日 21:57

ああ・・・その文様、うん、はるか9000年前のはるか前世の記憶にあるようなないような気がするよ。
うん、たしか、それゾウリムシのつもりで書いたような遠い思い出がうっすらとあるようなないような気がするよ。

投稿者 moral : 2007年09月16日 20:28

複製人間もらー なのか?
それとも、人類補完計画で記憶が混同してるのか?w;

投稿者 吟 : 2007年09月16日 23:55

コメントしてください




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