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わが町遺産【第6回】~杢沢(もくさわ)製鉄炉~ - 2010年01月27日

 鰺ヶ沢町教育委員会広報紙〝あじある情報〟に不定期連載されている「わが町遺産」シリーズとのコラボ企画6回目です。

 blog版では、写真を新規追加した上で、再構成してお届けします。

今回は鰺ヶ沢町内の道路工事現場でみつかった製鉄炉跡のお話。
モノは地味だけど背後にはとても雄大な物語が。



わが町遺産【第6回】~杢沢(もくさわ)製鉄炉~

 今を去るおよそ1,000年の昔、わが町の岩木山麓一帯に、日本有数の製鉄コンビナートがあった。という話をされたら、皆さんは信じることができますか?

 現在は農林漁業の町である鰺ヶ沢に、なんと古代の製鉄産業があっただなんて、思わず耳を疑いたくなるような話ではないですか。実はこれ、あまり一般には知られていませんが、すでに町内の数多くの遺跡の発掘調査によって解明されている、わが町特有の歴史事実なのです。

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[今は農地が広がる岩木山麓だが、かつては…?]

 杢沢遺跡は、そんな数多くある製鉄遺跡の一つ。湯舟川沿いの高台にある遺跡で、現在、弘前方面へ行く新しい農道が通っている所です。この遺跡からは、砂鉄を原料にして鉄をつくり出すための製鉄炉(タタラ)が、なんと34ヶ所も発見されています。

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[昭和63年の杢沢遺跡発掘調査時の様子:溝状の炉跡が整然と並ぶ]

 炉には砂鉄を入れ、足踏み式のフイゴ(風を送る器械)を使って高温に加熱して砂鉄を溶かし、不純物を取り除いて鉄分を取り出す仕組みでした。年代は、平安時代の後半頃(西暦950~1,000年代)のものと推定されています。

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[律令国家の対蝦夷政策・相馬の製鉄遺跡群(飯村均 著)より]

 このうち製鉄炉の一つは、発掘調査後に切り取って移設保存されており、今でも実物が残っています。これは、県内では鰺ヶ沢でしか見ることができない、たった一つの本物の古代製鉄炉です。

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[教育委員会に保管されている古代製鉄炉の実物]

 もちろん杢沢遺跡以外にも、こうした製鉄炉は、町内の舞戸・鳴沢地区の各地からも見つかっています。なぜ、どうして、鰺ヶ沢でこれほど鉄づくりが盛んだったのでしょうか。岩木山麓の豊富な森林資源や、日本海を使った鉄製品の流通ルートなど、さまざまな想像にかきたてられます。わが町の大地には、今ののどかな風景からは想像もつかないような、スケールの大きな産業遺産が眠っていたのです。何だか、すごくないですか。

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 上の写真は東禿遺跡から出土した製鉄時の名残りともいえるものですが、はるか昔の誰かの営みの結果が今、カメラのレンズの前にある、そう思ってシャッター切るととてつもなく感慨深いっす。このタタラ踏んでたひとたちは、どうなっちゃったんだろう、どこにいっちゃったんだろう、とか。鬼神太夫の伝説とかにもつながるし。

 そして、タタラ場と言えば、映画「もののけ姫」を思い出すけど、アシタカの故郷である地に、その物語の時代よりも前、すでにタタラ場があったという考察はとても興味深いですな。

 っていうのはですね、あの映画のアシタカの集落を描くために鯵ヶ沢町の一ツ森方面が取材されているようなのですよ。

男鹿和雄が主人公アシタカが住むエミシの村を描くために1995年に白神山地の取材に訪れている。 青森県の鰺ヶ沢町、津軽峠、天狗峠、一ツ森町などを写真を撮ったり絵を描いたりしながら歩き回り、その時のイメージを作品にちりばめている。(wikipedia もののけ姫 の項より引用:他、西目屋村、秋田県藤里町も記載がある)

もののけ姫の森っていうのが、白谷雲水峡てところらいしので、このへん連合はアシタカの森っていう謳い方してみちゃうってのは、ど?

今回紹介した「わが町遺産」の場所(ただし今はただの道路になってるよ):


より大きな地図で 杢沢遺跡 を表示

「わが町遺産」シリーズ一覧

投稿者 吟 : 2010年01月27日 01:12


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コメント

陸奥国の歴史を調べるのが好きです。
陸奥国に新羅人を移住させた問い記述から、福島県相馬の製鉄遺跡群の記事を読み、発掘物の須恵器に今の字が書かれていたそうです。多賀城遺跡からも今の時の書かれた物が発掘されているそうです。もしかして「今来才伎」(いまきのてびと)と呼ばれた渡来人の集団(新羅人)ではないだろうか? などと想像をしています。
その時代は東北南部のヤマト政権と蝦夷が抗争を繰り返していた時期であり、ヤマト政権の鉄器と蝦夷の鉄器の戦いのため長い間決着がつかなかったのでしょうかね?
日本海側は南から北まで渡来人が漂着可能ですから。

投稿者 犬連れ : 2010年03月12日 16:27

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