わが町遺産【第8回】~タラバガニの標本~ - 2010年04月28日

 鰺ヶ沢町教育委員会広報紙〝あじある情報〟に不定期連載されている「わが町遺産」シリーズとのコラボ企画8回目です。

 blog版では、写真を新規追加した上で、再構成してお届けします。

今回はカニにまつわる物語です。

わが町遺産【第8回】~タラバガニの標本~

 町教育委員会では、長年にわたり、町民の皆さんから寄贈いただいてきた昔の古い道具類を数多く所蔵しています。その収蔵庫の中に、なんとも巨大なカニの標本があります。これはいったい何でしょうか。実はこのカニの標本、わが町における蟹工船(かにこうせん)の歴史を伝える、かけがえのない「わが町遺産」の一つだったのです。皆さんご存じでしたか?

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[ケースの幅はおおむね1メートルほど、ガラス張で密封され手が込んでいる]

 蟹工船というと、小林多喜二の小説が有名ですが、かつてのタラバガニ漁の船で、船内にカニを缶詰にする工場までを備えていました。つまり、漁船で工場だから“工船”なのです。母船と呼ばれる数千トンの蟹工船は、それぞれ川崎船という小型漁船を積み込み、船団を組んで函館から出港。行き先はカムチャッカやアラスカ沖で、何ヶ月もかけてカニ漁をしたと言います。そしてわが町では、戦後は昭和29年頃から、浜町の方々を中心に蟹工船の出稼ぎが始まりました。漁師の経験を生かして、川崎船でのカニ漁に従事したそうです。仕事の厳しさや、寒さで凍傷になったりして辞めてしまう人もでましたが、出稼ぎはその後、昭和50年代まで続いたそうです。

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[どうやって作ったんだろかと思わせる]

 その蟹工船の出稼ぎ者の方々が、帰りの母船の中で記念に作って持ち帰ったのが、こうしたカニの標本でした。脚を広げると1mにもなる立派なタラバガニ。現在、町で所蔵している標本は、元は西海小学校に寄贈され、飾られていたものだそうです。また他に、石上神社(七ツ石町)では、同じようなタラバガニが奉納額になって掲げられています。何とも意外なところに、わが町の戦後史の一面が残されているとは思いませんか。

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[石神神社に奉納されているカニ標本]

 実は私は、恥ずかしながら、なぜ町の収蔵庫にカニの標本があるのか分からず、今まで不思議でなりませんでした。やっと分かりました。一人一人に生きてきた人生があるように、収蔵庫に眠る物の一つ一つにも、さまざまな物語があるのですね。

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[カニもまさか鰺ヶ沢に来るとは思っていなかったにちがいない]

そうそう、これね。
オレが現役小学生だった頃に見たことあります西海小学校で。
その時は職員トイレの反対側あたりにある倉庫の壁にかかってました。この巨大なカニの飾りはなんだろうと思っていたものです。

何十年もの時空を超えて謎が解けた…。


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わが町遺産【第7回】~旧鰺ヶ沢町史~ - 2010年02月22日

 鰺ヶ沢町教育委員会広報紙〝あじある情報〟に不定期連載されている「わが町遺産」シリーズとのコラボ企画7回目です。

 blog版では、写真を新規追加した上で、再構成してお届けします。

今回の主役は書物です。

わが町遺産【第7回】~旧鰺ヶ沢町史~

 わが町の歴史について書かれた「鰺ヶ沢町史」といえば、皆さん、昭和59年に出来た赤紫カバーの立派な本を思い浮かべることでしょう。家の本棚や、図書室などでよく見かける。おなじみの本だと思います。

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[現行の鰺ヶ沢町史全三巻+資料編]

 でも、実はその前にも、たった100冊しか作られなかった"もう一つの鰺ヶ沢町史"があったのです。

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[鰺ヶ沢町史の前身版?全三巻]

 それは、昭和30年の町村合併で今の鰺ヶ沢町になる前の、旧鰺ヶ沢町の町史です。この町史は、もともと昭和15年から、町の紀元二千六百年記念事業(神武天皇の即位2600年)の一つとして作られる計画でした。ところが、原稿を引き受けていた竹内運平氏(弘前の郷土史家)が戦後に亡くなり、仕事は、町出身の加藤鉄三郎、織田三郎の両氏によって引きつがれました。さらに原稿が完成すると、今度は昭和30年に町村合併があり、原稿は印刷の目途もつかないまま、むなしく町役場の書庫で埋もれてしまったと言います。これを何とか本にしたのが、当時、町の歴史を学ぶ民間グループだった「鰺ヶ沢民話会」でした。もちろん、民話会だけでは十分な印刷費がなく、自前でタイプライターを打って本を作ることにしたのだそうです。

 こうして数奇な運命をたどりながら、旧鰺ヶ沢町史は、たった100冊だけ印刷されました。全てが完成したのは昭和39年、町史作りが始まってから、戦中戦後や町村合併の混乱期をまたいで、なんと24年もかけてようやく出来た本でした。

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[紆余曲折を経て世に出た内容がこの中に…]

この旧町史は、数が大変少なかったこともあり、今も町内で持っている人は、ほとんどいません。現在の町役場でさえ、全3巻が1組あるだけです。そのため以前は、役場会計課の金庫で厳重に保管され、絶対に門外不出の本として大切にされたものだったそうです。すでに本の縁は傷み、使い込まれて古ぼけていますが、手にずしりと、歴史を受けついできた重みが感じられます。

これはもう、この本そのものが、れっきとした「わが町遺産」の一つと言ってよいでしょう。世の中には、どんなにお金を出しても、決して買うことができない本もあるのですね。

この前・鰺ヶ沢町史は、実はオレ、ちらほら読んでました。
毎週土曜日、公民館でパソコン相談・指導をしてるのですが、その場所が以前は旧図書室で、その片隅にひっそりと置かれていたのですよ。町名の由来の考察とか、すごい興味深い記述があった反面、なんだか表記とかに統一性がないな~とか思ってたんですが、その謎が解けたですよ、なるほどねぇ…。

ちなみに、現行の鰺ヶ沢町史はこちらに通販ページがありますので、一応。

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わが町遺産【第6回】~杢沢(もくさわ)製鉄炉~ - 2010年01月27日

 鰺ヶ沢町教育委員会広報紙〝あじある情報〟に不定期連載されている「わが町遺産」シリーズとのコラボ企画6回目です。

 blog版では、写真を新規追加した上で、再構成してお届けします。

今回は鰺ヶ沢町内の道路工事現場でみつかった製鉄炉跡のお話。
モノは地味だけど背後にはとても雄大な物語が。

わが町遺産【第6回】~杢沢(もくさわ)製鉄炉~

 今を去るおよそ1,000年の昔、わが町の岩木山麓一帯に、日本有数の製鉄コンビナートがあった。という話をされたら、皆さんは信じることができますか?

 現在は農林漁業の町である鰺ヶ沢に、なんと古代の製鉄産業があっただなんて、思わず耳を疑いたくなるような話ではないですか。実はこれ、あまり一般には知られていませんが、すでに町内の数多くの遺跡の発掘調査によって解明されている、わが町特有の歴史事実なのです。

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[今は農地が広がる岩木山麓だが、かつては…?]

 杢沢遺跡は、そんな数多くある製鉄遺跡の一つ。湯舟川沿いの高台にある遺跡で、現在、弘前方面へ行く新しい農道が通っている所です。この遺跡からは、砂鉄を原料にして鉄をつくり出すための製鉄炉(タタラ)が、なんと34ヶ所も発見されています。

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[昭和63年の杢沢遺跡発掘調査時の様子:溝状の炉跡が整然と並ぶ]

 炉には砂鉄を入れ、足踏み式のフイゴ(風を送る器械)を使って高温に加熱して砂鉄を溶かし、不純物を取り除いて鉄分を取り出す仕組みでした。年代は、平安時代の後半頃(西暦950~1,000年代)のものと推定されています。

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[律令国家の対蝦夷政策・相馬の製鉄遺跡群(飯村均 著)より]

 このうち製鉄炉の一つは、発掘調査後に切り取って移設保存されており、今でも実物が残っています。これは、県内では鰺ヶ沢でしか見ることができない、たった一つの本物の古代製鉄炉です。

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[教育委員会に保管されている古代製鉄炉の実物]

 もちろん杢沢遺跡以外にも、こうした製鉄炉は、町内の舞戸・鳴沢地区の各地からも見つかっています。なぜ、どうして、鰺ヶ沢でこれほど鉄づくりが盛んだったのでしょうか。岩木山麓の豊富な森林資源や、日本海を使った鉄製品の流通ルートなど、さまざまな想像にかきたてられます。わが町の大地には、今ののどかな風景からは想像もつかないような、スケールの大きな産業遺産が眠っていたのです。何だか、すごくないですか。

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 上の写真は東禿遺跡から出土した製鉄時の名残りともいえるものですが、はるか昔の誰かの営みの結果が今、カメラのレンズの前にある、そう思ってシャッター切るととてつもなく感慨深いっす。このタタラ踏んでたひとたちは、どうなっちゃったんだろう、どこにいっちゃったんだろう、とか。鬼神太夫の伝説とかにもつながるし。

 そして、タタラ場と言えば、映画「もののけ姫」を思い出すけど、アシタカの故郷である地に、その物語の時代よりも前、すでにタタラ場があったという考察はとても興味深いですな。

 っていうのはですね、あの映画のアシタカの集落を描くために鯵ヶ沢町の一ツ森方面が取材されているようなのですよ。

男鹿和雄が主人公アシタカが住むエミシの村を描くために1995年に白神山地の取材に訪れている。 青森県の鰺ヶ沢町、津軽峠、天狗峠、一ツ森町などを写真を撮ったり絵を描いたりしながら歩き回り、その時のイメージを作品にちりばめている。(wikipedia もののけ姫 の項より引用:他、西目屋村、秋田県藤里町も記載がある)

もののけ姫の森っていうのが、白谷雲水峡てところらいしので、このへん連合はアシタカの森っていう謳い方してみちゃうってのは、ど?

今回紹介した「わが町遺産」の場所(ただし今はただの道路になってるよ):


より大きな地図で 杢沢遺跡 を表示

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わが町遺産【第5回】~坂本台場~ - 2009年12月07日

ども。
 鰺ヶ沢町教育委員会広報紙〝あじある情報〟に不定期連載されている「わが町遺産」シリーズとのコラボ企画第五弾です。

 blog版では、写真を新規撮影した上で、再構成してお届けします。

今回は坂本台場の巻。
実はここ、前々から気になっていた場所ではあるのですが、なかなか機会がないままに…。
とりあえず、雪が降る前にいけてよかったよかった。

わが町遺産【第5回】~坂本台場~

 台場とは、海からの軍艦の攻撃に備えて、港や町を守るためにつくった砲台(大砲を置いた)のことです。江戸時代の幕末頃から、各地につくられました。特に江戸湾にあった品川台場は、現在でも東京都港区「お台場」の名前で親しまれ、大変有名です。

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[東京・お台場の様子:wikipediaより]

 では皆さん、鰺ヶ沢の「お台場」はご存じですか? 場所は、舞戸の坂本坂の上にある高台で、地元の人たちが「デンバ」(台場)と呼んでいるところです。今はただの雑木林ですが、探索してみると、土を盛って四角い陣地をつくった跡や、大砲を置いたとみられる発射台の跡が、そっくりそのまま残っています。

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[敷地の端々に盛土が見て取れる]

 東京のお台場とはちょっと雰囲気が違いますが、高台から望む日本海の眺めも絶景で、舞戸でご自慢の歴史スポットです。

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[旧鯵ヶ沢地区方面を臨む]

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[往時の鯵ヶ沢方面の様子:蓑虫山人写画より]

 この坂本台場は、明治時代初めの箱館戦争の時に、使われた砲台だとされています。当時、五稜郭(函館市)に立てこもった旧幕府軍は強力な海軍を有していたため、新政府軍だった津軽藩は、鰺ヶ沢の港を敵艦に攻撃される恐れがありました。記録によると、坂本台場には大砲2門が配備されたそうです。

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[デンバの構造が読み取れる絵図:舞戸村字北禿絵図(町教委蔵)より]


 明治2年(1869)年、五稜郭の降伏によって箱館戦争は終結を迎えます。幸いにも鰺ヶ沢への敵艦攻撃はなく、坂本台場から実際に大砲が撃たれることはありませんでした。その跡地は、今なお静かに、ひっそりと歴史の真実の姿を伝えてくれています。

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[現在のデンバの様子、一見ただの雑木林]

※台場からの眺めは、舞戸地区の「舞戸新八景」にも選ばれています。

現在のデンバは、鯵ヶ沢ではよく見かけるハリエンジュ(ニセアカシア)などによる雑木林になっているんだが、その中の一本に大きな丸石を根の中に抱え込んだ木があった。

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ハリエンジュは明治期に伝来した外来植物なんだよね。
で、もともとのデンバは土塁であったようなので、このような丸石はのちに持ち込まれたものかもしれないのよね。そしてそれを抱え込んだハリエンジュが根をはって幹を育てるまでの期間を考えると、ここにある土塁の跡-石-木の間には100年を越える縁がある、と言えなくもない。なんか不思議な感じがしなくもない。

なくもない が2度続いたw;

今回紹介した「わが町遺産」の場所:


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わが町遺産【第4回】~白八幡宮大祭~ - 2009年11月09日

ども。
 鰺ヶ沢町教育委員会広報紙〝あじある情報〟に不定期連載されている「わが町遺産」シリーズとのコラボ企画第四弾です。

 blog版では、写真を新規撮影した上で、再構成してお届けします。

今回は白八幡宮大祭の巻。

わが町遺産【第4回】~白八幡宮大祭~

 今年の夏、鰺ヶ沢では4年に一度の「白八幡宮大祭」が行われ、優雅な祭りの雰囲気に包まれました。古式ゆかしいおみこし行列、さらに各町内の華麗な人形の山車(やま)が続き、笛・鉦・太鼓の祭りばやしを奏でながら町中をねり歩きます。

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[行列先頭から臨む]

 こうした祭りの行列は、京都の祇園祭(ぎおんまつり)がそのルーツとされており、城下町や港町などの町衆の祭りとして全国に広まったといいます。鰺ヶ沢は古くからの港町で、津軽のどの地域よりも、いち早く京・大坂の文化に触れることができる所でした。このため白八幡宮大祭の歴史は古く、すでに江戸時代の初期の頃には、鰺ヶ沢の町衆の祭りとして定着していたことが知られています。

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[京都祇園祭りの様子(洛中洛外図屏風:室町時代)]

 さて、青森県の夏祭りというと、もっぱら青森ねぶたや弘前ねぷたが有名です。ところが皆さん、かつては青森や弘前でも、白八幡宮と同じおみこし行列の祭りがあったのをご存じですか? 弘前の八幡宮のお祭りは、津軽藩の殿様によって特に盛大に行われていたそうです。しかし江戸時代の後、明治時代になると、だんだんこうした祭りは行われなくなってしまいました。いつしか青森でも弘前でも、ねぶた・ねぷたが祭りの主役に変わってしまったのです。

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[弘前八幡宮祭礼の図)]

 でも、わが町だけは違いました。なんと津軽地方でただ一つ。鰺ヶ沢だけが、古い祭りの伝統を大切に受けついできたのです。これだけは、どんな立派な博物館でも保存できません。なぜなら、それは過去の歴史であるだけでなく、人々による生きた「わが町遺産」なのですから。

後日談として、先般10月31日、11月1日の両日、昔の白八幡宮大祭の映像の上映会が鰺ヶ沢公民館で行われ、多くの方々が関心をもって見ておられたのが印象的です。

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昭和28年に撮影された16mm、昭和56年に撮影されたVHSが見比べられましたが、変遷しつつ継承されていく、伝統というか民俗というかそのへんが興味深かったです。

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わが町遺産【第3回】~長平のトーチカ~ - 2009年09月06日

ども。
 鰺ヶ沢町教育委員会広報紙〝あじある情報〟に不定期連載されている「わが町遺産」シリーズとのコラボ企画第三弾です。

 blog版では、写真を新規撮影した上で、再構成してお届けします。
 今回は写真撮るのがちょっとだけ大変でした。このままどんどんアドベンチャーな感じに持っていかれるのか否か、不安が…。

わが町遺産【第3回】~長平のトーチカ~

 トーチカ(точка)とは、コンクリート製の防御陣地をさす軍事用語で、もともとはロシア語で「点」という意味です。一般的には、コンクリートで固めた中に兵隊が入り、小さな銃眼から、機関銃などで敵を迎え撃つのに使われました。戦前、日本にまだ軍隊があった時代、こうしたトーチカは、各地の軍施設に作られていました。

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[トーチカ外観]

 そのトーチカの本物が、なんと、わが町にもあると言うから驚きです。長平の和開地区にある丘の上。歩いて登って、たどり着いた林の中に、それは人知れず残されています。トーチカは、厚さ1mもある頑丈なコンクリート壁で守られており、中に入ると、細長い窓から周りを監視できるようになっていました。思わず、わが目を疑うような、まるで異空間に迷いこんだような感動が味わえます。

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[内部の様子:露出時間を長くとって撮影。実際は、肉眼でも真っ暗。]

 なぜ、どうして、ここにトーチカがあるのでしょうか? 実はそれは、戦前まで、岩木山のすそ野に広がる一帯が「山田野演習場」という旧陸軍の訓練場だったからです。このトーチカは、当時、砲撃の訓練などで、大砲の着弾地点を観測するために使ったものでした。昔は、もっと多くの訓練用トーチカが付近にあったのだそうです。

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[観測窓から外を見る…現在は雑木林しか見えない]

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[トーチカの眼下には開けた地形が広がっている]

 かつて演習場だったことを物語る本物の迫力は、最初は見るものを圧倒し、やがて厳粛な気持ちにさせてくれます。あの日。あの時代。わが町にも軍隊の歴史があったことを、決して忘れることのないように。(文:町学芸員 中田)

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[入り口と反対側には破壊の跡がある。爆風などの影響かと思いきや、戦後の物資不足の折に鉄筋を抜こうとしてこのような状態になったらしい。]

 さてさて…。

 まあ、行く前に学芸員N氏に
「今いくとコウモリの巣になってますから、へっへっへ。」
みたいに言われてたので覚悟は決めていたものの、うおーコウモリだ!

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まあ、害はないのですが、平素から触れ合っている系の生き物ではないので、すんませんすんません、ごめんなさいごめんなさい、みたいな感じで中に入っていったら、急に雨ふってきて、そのまま雨宿り状態に…。

1)トーチカで
2)コウモリと一緒に
3)雨宿り

ちょっと、なんつか、ここだけで十分すぎるくらいにブログネタだったかと思う次第…
こちらのブログ様によりますとキクガシラコウモリという種類だそうです。

しかし、まあ、このトーチカは訓練用とのことだけど、戦地にもあったわけだよね…この中で果てた人もいるわけだよね…絶対ここでは死にたくないと思いながらも、そんなことに思いを馳せた。

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今はなにもないけれど、ドアの蝶番が残っていたので、本当は完全に密閉空間だったようです。
この手の類はいつまでも遺物あつかいであってほしいものだ、と、切に…。

今回紹介した「わが町遺産」の場所:

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投稿者 吟 : 20:25 | コメント (0) | トラックバック

わが町遺産【第2回】~御仮屋(おかりや):鰺ヶ沢町奉行所 - 2009年08月09日

 ども。
 「わが町遺産」シリーズとコラボるblog企画の第二弾です。

>>第一弾はこちら

 今回もblog版では、写真を新規撮影した上で、再構成してお届けします。

わが町遺産【第2回】~御仮屋(おかりや):鰺ヶ沢町奉行所

 現在の鰺ヶ沢保育所が建っているところ、ここに昔、江戸時代の鰺ヶ沢町奉行所がありました。鰺ヶ沢の港町を管轄する町奉行のいた奉行所の跡地として、皆さんもよくご存じなのではないでしょうか。でも、さらに「御仮屋」という名前まで知ってる人がいたら、その人は相当の歴史先生です。


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[現在の鰺ヶ沢保育所正面階段]


 「御仮屋」というのは、殿様の宿泊所のことを意味します。弘前城の殿様が江戸に旅する途中とか、領内の巡見を行う時の仮の宿舎として使われました。殿様のいない時には、ふだん町奉行所として使っていました。だから御仮屋も、町奉行所も、同じ建物だったのです。

 さて鰺ヶ沢の御仮屋(町奉行所)ですが、入り口は何処だったでしょうか? 今と同じ保育所に上がっていく階段だと思った人、残念、間違いです。実は昔の絵図では、御仮屋の入り口は、なんと米町の通りに面した所に描かれています。今で言うと、裁判所に上がっていく坂道の下あたりです。


[鰺ヶ沢町絵図(光信公の館蔵)の一部:クリックで拡大]

 もちろん現在は、入り口なんてありません。つまり、どういうことかというと、御仮屋があった江戸時代の後、明治時代になってから、もともとの入り口を埋めて、今の場所に新しい階段を作ったみたいなのです。

これは意外な豆知識です。知らない人が多いと思うので、ぜひ自慢して教えてあげてください。(文:町学芸員 中田)


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[米町通りから見た現在の様子:昔はここに階段が]


オマケ写真:
御仮屋跡地はその後も町の要所として使われ続けました。
近年では、昭和48年(1973年)に現在の場所に移転するまでの鯵ヶ沢町役場は、御仮屋の場所にあり、その裏手に旧・鯵ヶ沢保育所がありました。

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[昭和40年(1965年)頃の旧・役場庁舎]
現在の保育所の正面階段が旧・役場ではこのように。右側の樹木は今はもうないですが。

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[改築される直前の旧・鯵ヶ沢保育所]
建物はなくなりましたが、左に写っている松は今も同じ場所にありますね。


今回紹介した「わが町遺産」の場所:

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投稿者 吟 : 15:09 | コメント (0) | トラックバック

わが町遺産【第1回】~赤石の追分碑~ - 2009年07月05日

 ども。
 突然ですが、鰺ヶ沢町教育委員会が発行している広報紙に “あじ”ある情報 ってのがあります。鰺ヶ沢ご町内在住でしたら、月イチで毎戸配布される、アレです。
 その中にこの春から、「わが町遺産」シリーズという新連載が始りました。あまりにオレ好みなツボにはまった企画なので、筆者の方に許可をいただき、blog版企画をコラボることにした次第です。

 しかしながらただの転載だとオレが楽しすぎな気がしなくもなくもなくもない(どっちだ?)ので、blog版では、写真を新規撮影した上で、再構成してお届けします。

わが町遺産【第1回】~赤石の追分碑~

 江戸時代、弘前から秋田へ向う主要道路だった「西浜街道」は、鰺ヶ沢を出て大和田の砂山を歩き、赤石町の街中へと入るルートを通っていました。

 途中、道は現在の対馬分店の前で二手に分かれ、一方はそのまま赤石方面(秋田・大間越)へ、もう一方は赤石沢目(日照田・種里方面)へと向かいます。 この分岐点のところに、江戸時代に建てられた「追分碑」があるのをご存知でしょうか? 追分碑と言うのは、道の左右を示す石碑のことで、今でいう道路標識のことです。 昔からずっと、この場所に建っていました。

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 赤石の追分碑は高さ175cm、安政2年(1855)に建立たれたもので、「追分」「左赤石沢目通」「右大間越通」と表面に刻まれています。 ここで注目したいのは、「左」と「右」の表記です。 実はこの左と右は、弘前側から歩いてきた人のためを考えて、左が赤石沢目、右が大間越であることを示しています。 ところが逆に、秋田側から歩いて来た人にとっては、左右の向きが違います。つまりこの道路標識(追分碑)は、殿様のいる弘前から来る人のことは考えていますが、他国から入ってくる旅人のことは、あまり意識していないのです。 何だか、当時の人々の方向感覚がわかるようで、ちょっと面白い石碑だとは思いませんか。

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〈「わが町遺産」について〉
 史跡や文化財というと、どうしても、国や県で指定を受けた貴重品ばかりが思いうかびます。最近だと、なんと世界遺産まで目指すものもあるようです。果たして、文化財の価値は、国や世界で認めてもらうことでしか見つけ出せないのでしょうか? そんなことはありません。もっと身近な立場から、身近な文化財の価値を見つけ出していきたい。 そんな思いから、皆さんのご近所に残っている何げない文化財を、「わが町遺産」として少しずつ紹介していきたいと思います。(文:町学芸員 中田)


 写真には「大正四年七月」「能代道通」という文字も写ってますが、他の文字とはタッチ(?)が違いますね。後年追加して彫られたものなんでしょうかね? 後日、謎が解けたら追加報告ということで…(^^;)


今回紹介した「わが町遺産」の場所:

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投稿者 吟 : 23:50 | コメント (0) | トラックバック


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