わが町遺産【第4回】~白八幡宮大祭~ - 2009年11月09日

ども。
 鰺ヶ沢町教育委員会広報紙〝あじある情報〟に不定期連載されている「わが町遺産」シリーズとのコラボ企画第四弾です。

 blog版では、写真を新規撮影した上で、再構成してお届けします。

今回は白八幡宮大祭の巻。

わが町遺産【第4回】~白八幡宮大祭~

 今年の夏、鰺ヶ沢では4年に一度の「白八幡宮大祭」が行われ、優雅な祭りの雰囲気に包まれました。古式ゆかしいおみこし行列、さらに各町内の華麗な人形の山車(やま)が続き、笛・鉦・太鼓の祭りばやしを奏でながら町中をねり歩きます。

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[行列先頭から臨む]

 こうした祭りの行列は、京都の祇園祭(ぎおんまつり)がそのルーツとされており、城下町や港町などの町衆の祭りとして全国に広まったといいます。鰺ヶ沢は古くからの港町で、津軽のどの地域よりも、いち早く京・大坂の文化に触れることができる所でした。このため白八幡宮大祭の歴史は古く、すでに江戸時代の初期の頃には、鰺ヶ沢の町衆の祭りとして定着していたことが知られています。

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[京都祇園祭りの様子(洛中洛外図屏風:室町時代)]

 さて、青森県の夏祭りというと、もっぱら青森ねぶたや弘前ねぷたが有名です。ところが皆さん、かつては青森や弘前でも、白八幡宮と同じおみこし行列の祭りがあったのをご存じですか? 弘前の八幡宮のお祭りは、津軽藩の殿様によって特に盛大に行われていたそうです。しかし江戸時代の後、明治時代になると、だんだんこうした祭りは行われなくなってしまいました。いつしか青森でも弘前でも、ねぶた・ねぷたが祭りの主役に変わってしまったのです。

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[弘前八幡宮祭礼の図)]

 でも、わが町だけは違いました。なんと津軽地方でただ一つ。鰺ヶ沢だけが、古い祭りの伝統を大切に受けついできたのです。これだけは、どんな立派な博物館でも保存できません。なぜなら、それは過去の歴史であるだけでなく、人々による生きた「わが町遺産」なのですから。

後日談として、先般10月31日、11月1日の両日、昔の白八幡宮大祭の映像の上映会が鰺ヶ沢公民館で行われ、多くの方々が関心をもって見ておられたのが印象的です。

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昭和28年に撮影された16mm、昭和56年に撮影されたVHSが見比べられましたが、変遷しつつ継承されていく、伝統というか民俗というかそのへんが興味深かったです。

そのほかの大祭関係記事一覧
「わが町遺産」シリーズ一覧

投稿者 吟 : 01:14 | コメント (4) | トラックバック

大祭に関するエトセトラ - 2009年09月03日

先月末、といってもそれは今週頭のこと。
西海小学校で、白八幡宮大祭を振り返ると銘打って、祭りのことを話したり、各町内のチャンチャレンコや夜神楽の競演をしたりって~催しがあってですな。

その絡みでいろいろ仕入れていたネタをメモ的にここに残そうかと。

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まずは、シラハチマンなのかシロハチマンなのか、から…。

白八幡宮大祭の読みはシロハチマングウタイサイなのかシラハチマングウタイサイなのか。
ご町内各町民の意見は大体半々であったのだが…。

○どちらでもよい。シラと読もうがシロと読もうが、それが白八幡宮を指しているのであれば(八)
○シラ説を押す。神社の系譜的に(冨)

神輿について
そもそも神輿が二つあるというのが珍しい。かつて弘前で行われていた大祭(鰺ヶ沢の大祭と対をなすもの)では、神輿はひとつであった。(津軽藩の行列図などから)

このふたつには、白八幡宮の主神が載っているとのこと。

前方の神輿

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○かつて田中町・水屋に存在し、後に白八幡宮に遷座した白鳥大明神。担ぎ手は田中町の者(より正式には田中町の漁師?)。神輿の名称は鳳凰輦(ほうおうれん)または略して鳳輦(ほうれん)という。神輿上部の飾りは伝説の生物、鳳凰である。(八)


後方の神輿

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○もともとの白八幡宮の主祭神。担ぎ手は漁師町の者(より正式には漁師町の漁師?)。神輿の名称は葱華輦(そうかれん)。神輿上部の飾りは、ネギの花(葱坊主)である。ネギの花は咲いても落ちないので縁起が良いとされる故。(八)

○田中町と漁師町の者が担ぐのは、かつてその町内が行列運行の終端だったためである。終端の町内の者は、そこまで来てくれるのであるから、と担ぎ手をかってでたとのことである。現在の行列の終端は大和田-舞戸まで伸びたが、そのしきたりが継承されている。(八)

行列について

大祭は正式には神幸祭(しんこうさい)と云う。神幸祭の中において、出発時の式を発興式(はつよしき)または発興祭(はつよさい)、到着時の式を還幸祭(かんこうさい)と云う。(八)

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↑発興式。さらにこの前夜、神様が神輿に遷る儀式が密かに行われている。

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↑還幸祭。社のまわりを三周する。

神輿行列は渡御(とぎょ)と云い、船による渡御を海上渡御(かいじょうとぎょ)という。
渡御の運行開始方面は、前回とは逆パターンで行われる。(今回初日は大和田方面だったので、次回初日は舞戸方面からはじまる)

渡御は町内全ての神社前を通過するが、塩竈神社の仮殿、願行寺と水屋ではかならず立ち停まる。

○かつての御旅所(神輿が宿泊する場所)は、水屋(田中町)であり、御旅所に神輿(=神)が居る場合、その場所で前夜祭(宵宮)が行われた。当時もう一方の端である淀町でも宵宮を行いたいという申し出があり、豊受美神社を御旅所とするパターンが新たに編成され、以降、公平となるよう交互に運行を行うようになった。しかしながら、その後、豊受美神社が御旅所として使われることがなくなったのだが、今後に運行するという伝統だけが受け継がれて現在に至る(八)

○海上渡御がなぜ行われるようになったかの由来は定かではない。(八)
○時期的には動力船が普及して以降であろう(冨)

○塩竈神社に立ち寄るのは正式参拝である。これは塩竈神社の祭神がかつて白八幡宮に合祀されていたことによる。(八)

○願行寺に立ち寄るのは、先々代の住職が、寺の前で破損した神輿を修理してくれたことに由来し、以降、敬意を表しているためである。(八)

○水屋に立ち寄るのは、かつて水屋に祭られていた白鳥大明神を合祀していることに由来する。(八)

○塩竈神社で奉納されるカシ禰宜について、これを漢字表記で下司禰宜とした明治時代の新聞記事が存在する。(ただし、その漢字表記が何に起因するかは不明である)


山車運行
各町内の山車は、供奉(ぐぶ)として行列に随行しているが、もともとは運行山車ではなく、飾り山であった。明治期の新聞記事には、上町・下町でそれぞれ一台ずつ山車を運行し、それ以外は各町内に飾っていたという記述がある。

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○元来、祭りは神事であり、神輿行列と山車行列が一体となっている大祭は、由緒正しい祭りの形態を現在に伝えている。逆に後方の山車運行が神事を離れ、発展するとネブタやネプタのような祭り形態になる。(書)

○山車には行きと戻りの囃子があり、それぞれチャンチャレンコと夜神楽である。行きか戻りかは、神輿行列の動きを基準とするが、神輿行列がいない場合には山車の動きを基準とする。(冨)

例)淀町方面へ向う漁師町通過時、神輿は新地におり不在であるので、山車を基準に考え囃子は行き(チャンチャレンコ)を奏でる。復路では、神輿が漁師町をはじめて通過するので、これも行きと考えてチャンチャレンコを奏でる。その後、神輿が浜町に入り、山車が釣町を通過する際には、前方に神輿がいないので、山車の往復を考えて戻りとし、夜神楽を奏でる。

※とはいえ、生演奏がすたれ、テープ再生が主体となっている現状では、このような細やかな演奏の仕分けが難しくなっているのも事実でありましょう。

○チャンチャレンコの語源は、その演奏の擬音ではないか。口伝による演奏技術の継承などの結果ではないか。(冨)

○ちなみに弘前にはチャンチャレンコそっくりの演奏が残っており、弘前祇園囃子と呼ばれている。夜神楽もあるぽい。

○鰺ヶ沢の夜神楽は、戦後はじまったものであり、二丁目が始め、それが各町内に広まった。(冨)

○ただし、一丁目だけは夜神楽はおこなっていない。しかしながら、夜神楽の囃子で舞う児雷也はある。

○夜神楽には歌詞があり、その内容は…
 隣のミヨちゃんが、腹病んだ~ えいやっ
 というものである。(冨)

 ※↑メロディを覚えやすくするための当て歌詞?


ン~ほかにもなんかいろいろあったような気がしますが、とりあえず、このへんで…。
あ、なんか (八)とか(冨)とか(書)は情報源を表しますが、分かる人にだけ分かればいいって感じだとおもうので、どれがなにかは明言せず…。

投稿者 吟 : 23:19 | コメント (2) | トラックバック

白八幡宮大祭-最終日その2 - 2009年08月17日

さて、海上渡御の後、地上の行列が再開されます。
今日は残りの半分の行程、鰺ヶ沢町の駅方面へと向います。

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歴史的というか慣例的というか、鰺ヶ沢町は本町一丁目を境に上下(かみしも)ふたつに分けて考えることがあります。※本町一丁目という地名も慣例的地名で、現行の正式住所表記ではこの表現はないです(^^;)

今年は初日に、大和田方向へと渡御し、最終日に田中町方向へ行くわけですが、前回の祭りではこの順番が逆でした。どちら向きにスタートするのかは、交互に行われているようですな。

そうこうするうちに、御神輿は田中町の水屋に到着。
ここでしばし休憩をします。
前回のよう田中町方面から運行する場合は、ここに御旅所(御神輿が泊まるところ)が設けられます。

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水屋は、この祭りの中でも特別な意味がある場所です。
御神輿が二つありますが、白八幡宮の御神輿は後方にある、丸い火の玉状の飾りがついている方です。
前にある鳥の姿があしらわれている御神輿は白鳥大明神で、もともとはこの水屋にお宮があったのでした。
ただ、波によるお宮の土地の侵食が激しく、白八幡宮に遷座したのだそうです。
ある意味、神様の里帰りという事ができるのかもしれませんね。

また、このような経緯からか、前の方の御神輿は代々、田中町の人々だけが担ぐことが許されてきたのだそうです。
ちなみに、後方の御神輿は、同じく、漁師町の人々だけが担ぐことが許されてきたのですが、その由来は判然としないみたいです。由来が判然としないながらも、脈々とその形式が受け継がれてくるあたりが、良い意味でも悪い意味でも、とても鯵ヶ沢らしい感じがします。


そして、一行は駅前を通過しつつ折り返し、中村川を渡って帰路に。

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白八幡宮に到着してからも神事は続きます。

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お宮の周りを三回まわります。かような儀式があることを、不勉強ながら今回初めて知りました、です。

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この後、御神輿が蔵(?)にはいって、その中で御神体の移動が行われます。その様子は関係者以外、知ることはできませぬ。

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御神体を元の場所に安置して、これにて終了です。

各町内毎の山車の話とか、チャンチャレンコと呼ばれる踊りとか、あるいは白八幡宮はそもそも「しらはちまんぐう」なのか「しろはちまんぐう」なのか、とかいろいろ気になったり言及したりしたいネタは多々ありますが、それはまた…。


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白八幡宮大祭-最終日その1 - 2009年08月16日

このエントリ書いている途中で力尽きて寝てしまい、公開までちょっとタイムラグが生じました。(^^;)

さて、最終日は冒頭より見所である、海上渡御(かいじょうとぎょ)です。
二つの御神輿が船にて鯵ヶ沢沖合いをぐるっと一周します。

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この船には限られた人しか乗船できません。船上では、ずーっと神事が執り行われっぱなしでトントントンという太鼓の音とともに、港の外へと出て行きます。

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全貌は写ってないですが、十艘ほどの漁船団も満艦飾で随行します。

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だいたい1時間もかからずに戻ってきます。沖合い数百メートルを富根町~淀町あたりまでいって帰ってくるかんじでしょうか。満艦飾の船団って、かっこいいっすね。

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最終日はこのあと行列が再編されますが、それは…つづく。

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白八幡宮大祭-二日目 - 2009年08月15日

二日目は神輿運行はなくて、各町内山車の自由運行です。
前回は全て中途半端に暮らしてしまいましたが、今年はテーマを決めて、カシ禰宜にフォーカスしてみました。ちなみに、読みは〝かしねぎ〟です。
もしかすると、鰺ヶ沢町民や鰺ヶ沢ご出身者でもあまり見たことある人はいないのではないか、というレアな神楽です。なんでかっていうと…そもそも公開期間が祭りの最中なので、行列や山車運行に参加してると見れないとか、あるいは四年に一回の公開頻度なので、祭りに参加してなくても、見れないとか(^^;)

オレも祭りの回数で云うならば今年が二回目です。
ま、とりあえず、どんなものなのか、どぞ。

さて、カシ禰宜の興味深いところですが。これがまた、いろいろあります。

まず、演目を奉納する場所が、仮設神社であるという点。
カシ禰宜は、新町の塩竈神社に属する(?)演目(?)ですが、現存する塩竈神社(願行寺の裏手あたり)は、比較的最近、昭和56年5月5日に再建(出典:鰺ヶ沢町史三巻)されたもので、もともと江戸時代にあったのもは、後年、浜町の胸肩神社に合祀され、さらに明治4年の神社改正とやらで白八幡宮に合祀され、そこから近年、遷座して再び新町に戻ってきたという、いわば彷徨える神社、みたいな。それが、また、四年に一度、忽然と国道沿いに現れる、みたいな。

もともと、新町では塩の商いが盛んだったようで、かような神社が存在するということらしいです。

んで、カシ禰宜の神楽中の台詞にも

〝宮の掃除も致さねばなりませず、塩竈の掃除も致さねばなりませず、〟とか〝汐汲む乙女諸共に、〟とか出てきてちょっとなんだか、なるほどな。

元々は、宮城(仙台?)の塩竈神社にあった神楽なのだそうで、安政九年(1780年)に商用で大阪にいった鯵ヶ沢の人(大塚又右衛門というお方らしい)が、帰路仙台に立ち寄った際に、この神楽に出会い、惚れこんで、かの地に一ヶ月逗留し、囃子から台詞から踊りから一切を伝授されて鯵ヶ沢に持ち込み、子どもたちに教えたのが起源なのだそうな。
そういう古文書が残っているそうです。

で、それから、ずーっと子どもたちが伝承してきたぽい。
本家・宮城では途絶えてしまったらしいのですが。まあ、そういう感じで、ここでもまた、昨日の記事ではないですが「いろんなオリジンが保存されてるな」感が。

意外に歴史文化の箱舟なのか、このへんは!?

オマケ:ビデオに字幕つける必要性から、カシ禰宜の台詞を書き起こす必要があったので。
一部、原稿よりも縁者の台詞にあわせて改変してたりもしますけど。

カシ禰宜

か様に候ふ者は此の宮に仕え奉る神職の者にて候ふ。今日は三寶吉日なれば、御神楽を奏し奉る。


宮の掃除も致さねばなりませず、塩竈の掃除も致さねばなりませず、さても さても さても いそがはしいことかな。


盆と正月が一度に参った様で、カシ禰宜心持ゾクゾク致します。


先ず先ず氏神へ参らう。


臨兵冠者、シチヤクヤカチヤクシチヤクチヤ、カシ禰宜によいいたこを授けて下さい。


あーらおそなはッて参りました。


太夫殿、太夫殿、宮の掃除も出来ました。塩竈の掃除も出来ました。早う御神楽を上げさしてようござらう。


何太郎冠者。


御前に。


掃除出来たか。


ハハー、太夫殿、太夫殿、常のこととは違ひます用意はせー。


そそうを云ふな。


ハハー、太夫殿、太夫殿、いたこのことは おなかぶねにいたしませう。


下におらんかー。

ハハー、皆々様よう御聞きなさいませ、私事は護符守も書きますし、祈念祈祷も上手なり。

宣託分はいつもの通りにしますに、飯一杯の御奉行であるまりたたいてもらひはしまい。


下におらんかー。


ハハー。


そもそもこれは塩竈大明神に仕え奉る神職の者にて候ふ。


幸ひ幸ひ。


神は人のうやまひによって威を増し、人は神の恵みによって子孫繁生す。


納就、納就。


ここにも神の五十鈴川、天下泰平、御代萬歳、四海の浪も治まりてー。


納就、納就、幸ひ、幸ひ、うやまって申す。

武運長久、海漁満足、氏子繁昌と御まもり候へや、さへ、さへ、小豆餅たんとついてあげます。


仲々納就。


幸ひ幸ひ。


国も港も賑やかに 袖振り分けの花かつぎ、出入る船は数知れず、世も豊年に治まりて 汐汲む乙女諸共に、いざや神慮謹み申すなり。

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白八幡宮大祭-初日 - 2009年08月14日

あれから四年がたちまして。
四年に一度行われる、鰺ヶ沢町伝統の祭り、白八幡宮大祭。
この歴史は延宝五年(1677年)までさかのぼれるらしいですけど。

主旨は非常にシンプルで、四年に一度、ご町内にある白八幡宮の神様が、神輿にのって町内を見回るというものです。これを渡御(とぎょ)と言います。

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神輿を担ぐことが出来るのは、鰺ヶ沢の中でもさらに特定の町内の者だけです。ちなみにオレは資格外です(^^;)
わっしょいわっしょいとかそういう類の担ぎ方はしません。あくまでも神様ですので、うやまいつつ、そーっと。

そんなシンプルな主旨のお祭りではありますが、そのお神輿への随行がややべらぼうで…

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一番後ろにお神輿がおります。
でも、この行列も、人口の減少でかなり規模が縮小してるんですぜ。端折っている役割とかけっこうあるらしいです。ひるがえって昭和前期のあたりは、むちゃくちゃべらぼうな長さの行列だったとのこと。

そんでもって…。
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ずらりと並んだ、各町内毎の山車。これらが、神輿行列の後に山車行列として続きますので、行列全体の長さはさらに3倍くらいになります。とはいえ、もはや、この山車運行も、全町内が参加しているわけではないのです。これも人口減の影響です。

この、神事(神輿行列)があっての山車運行というのが本来のスタンダードな祭りの姿ではないかという話もあります。翻って、青森ネブタや弘前ネプタなどは、この山車運行部分が肥大化し、神事部分が廃れてしまったのではないか、という説もあるそうな。

そのへん議論の余地はいろいろあるかもしれませんが、ま、鰺ヶ沢ではいろんなオリジンが何気に沢山保存されていて、これもその一例なのかもしれませんのぅ。

そうこうするうちに行列は淀町に。
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鳥居越しに行列を取ろうと思っていたら、神職さんに一礼されて、どきどき。
もちろんオレに礼しているのではなくて、豊受美神社に対して、です。

かつてこの神社は、正式な御旅所、つまり神輿が休む場所だったとのこと。
あとでそのことを知り、なんだか申し訳ないことした気持ちに…。

さらにその先、大和田町内に行列が到達。
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ここはかつて、昭和30年の町村合併が行われる前の、旧鰺ヶ沢町の境目です。
大和田は当時は町外、隣村である赤石村でした。(今でも住所は大字赤石ですね)
そのため、このような歓迎の柱を建ててお神輿をお迎えするという礼を尽くしているのです。それが今でもそのまま伝わっています。行列はこの少し先で折り返し、そのまま鰺ヶ沢漁港のお旅所(御仮殿)まで戻ってきます。

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神輿がここにやってくる直前、神輿方向からなにやら一陣の風がふっと吹いてきたのがちょっとした軽度の神秘体験。たまたまでしょうが、疲れているとふっとそんな気持ちになりますな。

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ここで丸一日、御神輿はお休みすることに。

投稿者 吟 : 21:19 | コメント (2) | トラックバック

祭りの年 - 2009年07月02日

今年は四年に一度の白八幡宮大祭の年である。

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と、いうことは、前回は4年前である。上記は今年のポスター。
こちら前回のポスター

なんか、作風の変化にも4年という歳月が流れている感がある…やも。

大体どんなまつりかてーと、まあ御神体が町内を検分(?)してあるくといった様相の行列が主旨。

鰺ヶ沢・白八幡宮大祭 - 初日 - 2005年08月14日
白八幡宮大祭 - 二日目 - 2005年08月15日
白八幡宮大祭 - 終了 - 2005年08月16日

大祭のページも更新されてますな。
ちょっと、フラッシュのレスポンスに無理があるかもしれんね…。

ということで今年の夏は歴史がキーワード。
そういう感じの年なので、ちょっと歴史系企画をはじめてみようかと思ってたりもします。
(要するに予告編で本日終了)

投稿者 吟 : 23:13 | コメント (0) | トラックバック

白八幡宮大祭 - 終了 - 2005年08月16日

おわりましたな、つかれましたな。
熱中症気味なのか、軽微な頭痛がぽーっとします。

さて、本日は御神体の収められた神輿が船で沖に出るという「海上渡御」(かいじょうとぎょ、と読むらしい)がありましたな。港町ならではな感じ。

ところで今日の一枚目。

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満艦飾(まんかんしょく)というあまり聞きなれない言葉がありますが、マージャンの役ではありませぬ。要は船を飾り立てることなんですがね、上の写真が一つの例。

こういう船が何艘もある種艦隊行動みたいに動くらしいので、こりゃ見てみたいじゃない?

ということで、オレはひとり山に登ったw
海が見渡せるポイントがあるので。

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ま、ちょっと沖合い遠いんで、アレだけども、隊列組んだりぐるんと回ったりとか、けっこう面白い動きしてましたな。

余談:
ちょーどこのころ、宮城で地震がおきたんだけど、さすがにこのあたりの海は目視でわかるような変化はなしでした、隊長!

投稿者 吟 : 22:53 | コメント (4) | トラックバック

白八幡宮大祭 - 二日目 - 2005年08月15日

本日は大祭の二日目でありまして、各町内の山車の自由運行でした。
本日ワタクシなんとしたことか、いまひとつてきとーに行動していたもので、あんま成果があがっていませんw

いや、ま、なんつーか、オレんとこの町内が山車運行ない町内なので、あんま燃えないとゆーか…。
さりとて、自由運行だから、全部カバーするのも無理だべなってーのもあって。

あれだね。運行スケジュールとか事前にわかってるといいんだけどね。
チャンチャレンコ(注1)ポイントとか。

ということで、夜の大集合ライトアップは見にいったけど。

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現存する山車は10台あるのかな?
上はそのうちの一台、七ッ石町内会の「川中島の決戦」。
昨日、mononokeさんが「バルタン星人みたいに見える」とゆーてはりましたので、あえて掲載。
振り下ろしている二の腕だったのですな、ふぉっふぉっふぉのハサミが。

んでもって、ジライヤ(注:2)とかの見所もあったのですが、私、そのときあろうことか死角に位置しておりましたゆえ、これまた押さえることができておりませぬw;

なんつか、力抜けまくりな感じで行動してた二日目でありますた。


注1 チャンチャレンコ:男児が踊る舞の名称。楽曲を口で表現したときの音が語源といわれている。基本は弘前祇園囃子によくにた音楽だが、鰺ヶ沢では各町内ごとに競い合った結果、踊りのバリエーションが発生し、後にそれにあわせて音楽も美妙にバージョンが異なるものになったとゆー。

注2 ジライヤ:踊っているのはオレと同級生だが、向こうがオレに気づいてないのでオレも特に声をかけていないとゆー。っていうか、あのメイクされてると、声かけられないです…。

投稿者 吟 : 23:36 | コメント (0) | トラックバック

鰺ヶ沢・白八幡宮大祭 - 初日 - 2005年08月14日

神通力は実在するのか?
昨日、土砂降り。今も土砂降り。
でも、ご神体の運行時間はきっちり晴れてたというね、っていうかご神体が移動しおえた瞬間雨ふってきたんだが。

いま、この地は霊験にあふれているのやもしれん…。とかゆー。

ということで、白八幡宮大祭初日@鰺ヶ沢。

津軽の祭りというとねぶた・ねぷた系統風味が思い浮かぶかもしれませんが、白八幡宮大祭は明らかに異質ですな。

よーするに、なんなのかちゅーと、ご神体が四年に一度町内を検分してあるく、ちゅーことになるのかな?

基本的に御神輿なのですが、えっほえっほ、ではなく、それをしずしすと運行するために行列が組まれます。ここだけみると、まるで参勤交代な歴史絵巻。

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70以上の役職があって、それらの人数と並びがぜ~んぶ細かく決められておりますな。最上級クラスの役職だと、馬上の人となりますな。

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さらにそのあとに各町内の人形山車が続きます。ことしは7台運行したのかな?

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ねぶたのようでねぶたでないです。
まず、構造がはりぼてでないということ。次に、山車内部に囃子方が乗車するようになっているということ。

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サウンドもねぶた系のドンコドンコドンコドン!
ではなく
コンチキチンのピ~ヒャラ ドンドン
ですな。津軽の京祭りと呼ばれるゆえんで。


う~今回、ビデオも回してるので写真撮影がおざなりな感じですな・・・。

オマケ:御奉行会談
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いわゆる「どうよ!?」って感じの休憩タイムなんだろうが、衣装が衣装なので「どうでござる!?」に見えてしまうな…。

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白八幡宮大祭 - 2005年07月04日

地元的には、通称、「四年に一度の祭り」または単に「祭り」と呼ばれちょりますが、今年がその年ですな。

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(写真は今年のポスターだよ)

これがまた、なぜに四年に一回なのかというと、元来は弘前と持ち回りでやっていたらしいのですな。そうすっと、お互いに四年に一回をずらしながらやるから、実質は二年ごとにどっちかでやっていたという。

実際の模様とかは、ここ見るといいかも。
今年の情報は、ここかな。

青森の祭りというと先入観でネブタとかネプタとかそういうの想像しちゃいそうですが、この祭りはビジュアル的には人形山車を牽いてる感じで似てるけども、音的にはコンチキチンな祇園祭っぽい風情(MP3)だったりする。もっともちゃんと比べると似て非なるものらしーのだが。

まだ、一月以上先のイベントだけども、今年のポスターがえらく気に入ったので、本日のエントリーにしてみましたよ。それもそのはず、絵柄んとこのその「の」の字マーク

投稿者 吟 : 23:31 | コメント (1) | トラックバック


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